直樹はその週末、久々に数人の友人達と過ごした。
花見をするために地元では有名な公園へ行き、その後は女友達も交じって無礼講とはしゃぐ友人の頭を軽く叩いたりした。少し肌寒かったが、気にならなかった。久しぶりに同年代の仲間と楽しい時間を過ごしていたからか、酒を少し入れていたからか、身体が実は冷え切っていることにまったく気がつかなかった。そして美しい桜の姿に癒された代わりに、直樹は風邪をひいた。
ぶへっくしょん、とくしゃみをした瞬間に鼻が出た。くしゃみと同時に鼻を垂らすなんて、小学生かと自分に突っ込んで自室で苦笑いを零す。
鼻をかんで、自分の鼻を鏡で見る。既に赤くなり始めている鼻はひりひりとした気になる痛みを訴え始めている。世の中こういう時のために柔らかティッシュというものがあるのだが、花粉症と縁の無い直樹はそういった少しお高めのティッシュを買う習慣は無い。
ドラッグストアで安売りしていたティッシュで鼻をかみ、仕方が無いので赤くなったところにはニベアを塗った。呼吸をするたびにニベアが香る。その香りに耐えながら鼻の修復改善を望んでいた直樹だったが、結局鼻をかむとニベアも取れてしまう。彼は溜め息を吐くと、上品な振る舞いを諦めてティッシュを鼻にねじ込んだ。人にさえ見られなければコレが一番手っ取り早い方法である。口で呼吸をして本を手に取る。本来ならば既に会社で仕事を始めている時間なのだが、あまりのだるさに今日は会社を休んだ。体調不良で会社を休むなんて何年ぶりだろうか。仕事はちゃんと回っているだろうか、後輩はきちんと自分のいない分のフォローをしてくれているだろうか、そんなことが気になって身を横にしてもついつい起き上がって物思いに耽ってしまう。休むと会社に連絡を入れた際にかけられた「一日ゆっくり休んでくださいね」という言葉通り、素直に休むことは出来そうも無かった。
活字を追う目を止める。隣からドスン、ドスン、と地響きのような音が響いてきたからだ。何かを重いものを叩きつけているような鈍い音。何をしているのだろうか、こんな音は今まで余り聞いたことが無い。直樹は痛みを訴える頭を右手で押さえながら部屋を出て、隣人のインターホンを押した。そう言えば、あれから二週間ほど顔を合わせていないような気がする。出不精の秋成と社会人の自分が偶然に出会うことなど確率的に低いのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、何故か不思議な気がした。
暫く待っても扉はうんともすんとも言わない。もしや…と思いながら玄関のノブを捻る。直樹の嫌な予感の通り玄関扉は相変わらず容易に開いた。
マジか。何度注意したら分かるんだ、あの馬鹿は。
舌打ちと同時に秋成が中から出てきて、そして一瞬キョトンとした表情をしてから目を細めた。
「ああ、なんだ直樹か。どうかした? あったかいから中入りなー」
「いや、うるせーって注意しにきただけ」
「響いた? もう少しで終わるからちょっと待ってて。つーか、入って」
「静かにしてくれんなら話はもう終わったからいい」
「じゃあ、静かにすんのやめようかな」
「はあ?」
「うーん…なんか直樹と話すの面倒くさい。さっさと入って」
「じゃあ、帰らせろ。意味がわからない」
「確かに言ったオレもよくわかんないね。でもオレ直樹の鼻栓の意味はわかるよ。それ、風邪ひいたんよね」
「あっ!!」
そこで漸く直樹は己の鼻にティシュが詰まっていたことを思い出した。秋成は無表情だったのだが、直樹には意地悪く薄っすらと口元が緩んでいるように見えた。そういや、扉を開けた瞬間に秋成が微妙な顔をして見せた気がした。これのことか。
どうせなら最初に言ってくれればいいのに、鼻栓をしたまま人様に文句を言ったなんてなんとも恥ずかしい失態だ。赤くなった直樹の耳を摘まんで秋成はそんな彼の背を手で軽く押す。怒りが羞恥に負け、心が折れたところで直樹は素直に従った。本当はただ身体がだるかっただけかもしれない。
部屋に入ると直樹はすぐさま腰を下ろし、鼻栓を抜いて軽く咳をした。差し出されたティッシュを軽く会釈して受け取り鼻をかんで、指先に滑らかに触れたティッシュの感触にハッとする。これがいわゆる高級ティッシュという代物か。直樹はティッシュの箱をまじまじと眺め、そしてまともに働いてないくせに生意気だなと思った。
どん、という振動に身体をびくり揺らして音のするほうを見遣る。秋成が当たり前のようにうどんを打っていた。
「なんでうどん…?」
「あれ? よくうどんだって分かったねぇ」
聞こえないくらい小さな呟きを聞き取って秋成がだるそうに返してくる。
「母さんがよく打ってたんで…」
「あ、マジで? いいおかーさんだねぇ。オレの母親はね、なんもしねー人だったの」
ビニールシートに入れた粉の塊を踏みながら直樹を見た秋成は小刻みに身体を揺らした。「だから、オレのうどんはばあちゃん仕込みなんよねー」
「そういや、あんたって料理好きなの?」
「好きってことはないけどね、得意ではあるよね。子供の頃、夕飯はオレとばあちゃんで作ってたし」
「へぇー」
「あ、そうそう。ばあちゃん、先週死んだんよ」
さらっと言われて流しそうになった言葉を頭の中でとっさに掴んで秋成を見る。「え?」
「死に目には間に合わなかったんだけど、まぁ気分的にはちゃんと見送れたとか思ってるの。らしくもないねぇ」
「え? ちょ、なんか急なんだけど…」
「そうかなぁ? でも死ぬってことはいつでも急な出来事よね」
「そりゃまぁ…そうだけど」
大半の人はその急な死に戸惑うはずだ。なのに、秋成は平然とした態度で…いや、それどころか、いつもは見せない笑みをうっすらと浮べて愉快そうに喋っている。
「オレね、誰よりもばあちゃんのこと好きだったんだよね。ばあちゃんも一番オレのこと可愛がってくれてたし、ばあちゃんが一番好きな孫はオレだって信じて疑わなかったわけ。だから、ばあちゃんのために介護の資格も取ったのに、ボケたらばあちゃんオレのこと一番に忘れたの。ありえませんよ、マジで。オレ、すげーショックでムカついて顔も見たくなくなったのよね」
「ああ…それで」
「うん、そう。それでひねくれて施設に顔を出さなかったの。でもねー、ばあちゃん最期の最後に言ったんだって。“早く起きて秋くんにうどんを食べさせてあげなくちゃ”って」
それで“うどん”か。
漸く秋成の行動と話が繋がって納得していると、シートの下のうどん生地を踏んでいた秋成は視線を一度直樹にやってから、その視線を天井に向ける。
「嫌な出来事があると、良い出来事ってそれに塗りかえられちゃうんよね。正直、ばあちゃんとうどん打ったことなんてオレ忘れてた。人間って不思議だよね、100個良いことがあっても1つ嫌なことが起こるとその前の良かったことなんて記憶から飛んじゃうんだものね」
「え? あーまぁ確かにな。でも逆もあるじゃん。嫌なことばっかされても、なんか1つすげぇ良いことされたら嫌なことされた記憶って飛ばないかな?」
熱のためにぼーっとしてきた頭を手のひらで押さえながら言うと、秋成の笑い声が鼓膜を掠めた。珍しく弾んだ声に顔を上げたいが、それすらだるくて身体が動かない。
「すげーね。普通、飛ばないよ。なにそのポジティブな能力」
「いや、オレはどちらかと言うとネガティブだから…」
「ああ、そうだよね。変なの、直樹。でもそれおもしろくて、良い思考回路かもしれんよね」
言った声が近くに感じた。軽く咳き込むとふいに冷たい手が頬に触れてくる。「冷て…」
「おでこに粉がついちゃったけど、なんかもうそんなの気にするどころじゃないね…」
「だるい…」
「だろうねぇ、顔が真っ赤だもの。悪いけど、オレには直樹を背負って布団まで運ぶ力ないからね。ここで寝て貰いますよ」
「帰る。いや、帰りたいんだけど…帰れそうもない」
「帰す気もないよ。誘ってんのかと思うくらいに目がとろーんとしてんもんよ。ま、オレは病人襲うほど悪趣味じゃないんで、安心して寝とってちょんまげー」
いつもの無感情な顔でそう言うと、秋成は首を左右にだらだらと振りながらクローゼットを開け、そして冷却シートを持ってきて、直樹の額に貼った。「とりあえず寝るがよいわね」
「なんか…すいません」
軽く頭を下げた直樹の髪をくしゃっと乱して秋成が満足そうに目を細める。「かわいいねぇ」
用意された座布団に横たわり、秋成が持ってきた毛布にくるまって直樹は目を伏せる。
「しょうが湯でも作ってあげるよ」
遠くから聞こえた秋成の言葉に曖昧な返事をして、直樹は寒さを訴える身体を温めるように毛布をぎゅっと強く握った。
※コメント※
とうとうゴールデンウィークに突入するんだぜ☆ということで皆さまどこかお出かけなさるんでしょうかww 私は今のところ全く予定がございませんのでインドアで攻めていきたいと思います。まぁ、何もせずぼーっとするというだけの話です。はい、そこ、寂しいとか言わない!!! 皆さまにおかれましては、よい連休をお過ごしくださいませww
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